やわらかい気持ち

 「あ」
師匠も走るという12月。
仕事が年末に向かって押し寄せる中、今日が自分の誕生日だと気づいたのは取引先の会議室でだった。

 「松永さん、どうかされましたか?」
取引先の相手に尋ねられて、初めて自分が声を出していたことに気づく。
「いいえ、何でもありません」
答えて、目の前のスケジュール帳に視線をやる。
そこには28日に赤い丸がしてある。
この日は私の27回目の誕生日だった。


 取引先との打ち合わせは正午に差し掛かるところで終わった。
内容も変更点がなく、このまま進められそう。
これを年内に仕上げておけば、年明け最初の仕事はずいぶん楽に進むはずだ。
会社を出て最寄りの駅に向かうと、後ろの方向から人の波に追い越される。
そうか。
ちょうど近くの会社からお昼に出る人たちとかちあったようだ。
空腹をこらえて、そのまま電車に乗った。
自分の会社に戻る頃には、駅前のコーヒーショップは人がまばらになり始めていた。
会計をすませたカフェラテとミラノサンドのトレーを抱えて、禁煙席の一番奥に陣取る。
資料をまるで自分の机のように並べる。
机の端に携帯を置く。
携帯はいつもと変わらず、小窓に時間を表示している。

 
 27歳ともなれば、友だちはみんな自分の人生を歩んでいる。
資格を取ったり、転職を考えたり、恋人ができたり、結婚・出産したりとその様子はさまざまで、そんな中、今はかかわりの薄い友だちの誕生日までいちいち思い出したりしない。
ましてや、学生時代のように誰かの誕生日だからといって、手料理と酒を持って自宅に押しかけるなんてことは本当に稀で。
誰からもメールの一通さえ来ないのは、そういうこと。


 直帰する予定だったが、歩きながら大事な資料とCD-Rを会社においてきたのを思い出した。
あれがないと仕事にならない。
会社まで取りに戻ることにした。
営業部の自分の机に行くと、置いた覚えのない紙袋が置いてある。
「松永さん、座らないんですか?」
机の前に立ったままの私に、隣の席の青木さんが声をかけてくる。
「これって……誰が置いたか知ってる?」
「あぁ、それ。 『松永さんの誕生日だから』って、総務の田崎さんが置いていきましたよ。 松永さんって田崎さんと同期でしたっけ?」
総務の田崎。
その名前を聞いただけで、頭の中に衝撃が走る。
田崎は半年前に別れた、前の彼氏だ。


 おそるおそる袋の中身を取り出すと、そこには柚子茶のビンが入っていた。
柚子茶は私の大好物で、彼とつきあっていた時にも二人で自宅で過ごす日は必ず飲んでいたものだ。
ホワイトボードに『直帰』と書いていたので、そのまま置いていったのだろう。
彼はどんな気持ちで私――元彼女の好物を買って、渡そうと思ったのだろうか。


 誰か一人でも自分のことを考えていてくれる。
誕生日とは本来、そういう日なのかもしれない。
心の奥がじんわりと暖かくなるのを感じる。
彼のくれた暖かい気持ちは、確かに私の心のやわらかい場所に届いた。
私は今日という日に、暖かい気持ちを伝えてくれた彼に感謝した。

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