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● ぬくもり  ●

 遠くから聞こえる着メロで、芳乃は包丁とまな板から顔をあげた。
急いで寝室に走り、カバンの中から携帯電話を取り出す。
小さな表示窓にある名前は夫の健太郎だ。
電話に出ると出先からなのか、声とノイズが入り混じって聞こえてきた。
「はい」
「あ、芳乃?」
「そうよ」
「今日、急な接待入ったからメシいらないわ。遅くなると思うから寝ててくれ」
「わかった」
芳乃がそう告げると、電話は切れた。
リビングのテーブルの上に携帯を置くと、芳乃は台所に戻る。
まさに今格闘していた物はすでに鍋いっぱいある里芋だった。
芳乃は里芋独特のぬめりと食感が大嫌いだが、夫の好物となれば作らないわけにいかない。
今日は二人の六回目の結婚記念日なのだ。
夫の好物でテーブルをいっぱいにしようという妻の心意気を夫は知らない。
それどころか今日が結婚記念日だと覚えているかもあやしい。
―――六年もたてば、こんなものなのかな。     



 最後の里芋の皮を取り終えて、鍋に放り込む。
そのとき、かすかに声がした。
ちょうど赤ん坊が泣くような。
芳乃は手を洗いに洗面所に向かうと、声の主もついてくる。
水を流す音が怖いらしく、洗面所には入ってこない。
手をふいて、声の主に呼びかける。
「おいで、さくら」
にぁーん、と甘い声で鳴くのは、真っ白な一匹の猫だ。
体毛が白なのになぜ「さくら」なのかというと、芳乃が桜の樹の下で拾ったからだ。
夫はいろいろと違う名前を提案したが、芳乃の中では一目見た時から「さくら」以外の名前はありえなかった。
結局、夫が折れ、新しい家族は「さくら」になった。
それが二年前の春のこと。

    

 六年。
結婚期間はそのまま、芳乃が専業主婦になったのと同じ年月である。
子どもはいない。
それが『まだ』という希望か、『もう』という諦めか。
芳乃自身にもわからない。
夫は「欲しい」とも「欲しくない」とも言わない。
親戚の集まりで責められることもあるが、夫がすべて反論した。
さくらを抱きかかえながら、思う。
もし子どもがいたなら、このぬくもりは得られなかったのではないか、と。



 あるものを大事に思うこと。
それはあったかもしれない未来を恋うよりも難しい。
この手を離さなければ、ずっとずっと一緒にいられる。
いつか二人の命が尽きるときまで。
縁によって得た小さな命とともに、目に映るすべての景色を幸せだと感じたい。
誰が何を言おうと、きっと、それでいい。




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