『落下速度』

反転する世界。
ゆっくりと時間は止まり始める。
スローモーションなのに、どこか景色は速い。
あれ、なんか見えてる世界がおかしいなー。
頭おかしくなっちゃったかな。
昨日食べた期限切れの明太子があたったかも。
さすがに捨てればよかったな。
っていうかああいうのって脳にも影響してくるものなのかな。
お腹壊したりするのは理解できるんだけど・・・まあいっか。
それにしても妙な感じ。
目の前に階段。
上から見上げた感じ?
多分この状況だと背後に蛍光灯があって、そうか、あたし回ってるのか。
段違い平行棒からのくるくるーすたんって器械体操のアレ?
まさか器械体操できるとは思ってなかったな。
うふふ回ってる回ってる。
でもスカートなんだよなぁ今日。
パンツ見えるのは勘弁してほしいな、やっぱレギンスはいとくべきだったなぁ、失敗した。
今度から気をつけないと。
にしてもいい眺め。
うん、こんな景色まあ滅多に見られないよ。
いい経験だね、これでまた経験値増えたなぁ。

その瞬間。
腹部に猛烈なまでの圧力を感じて、一瞬息が止まりそうになる。
止まったような気もする。
力強すぎるほどの力が、私を押しとどめる。
ふぎゅ、と小さなうめき声が自分からもれて、そのまま反転世界は停止した。
ぐっと重力が全身を襲い、改めて自分の重みを実感する。
そして状況をやっと理解しようとする。

もしかしてあたし結構やばかった?

その瞬間背中を冷や汗が走る。
身体が動かなくなり、あたしを危機から救ってくれた腹部のなにかに頼りきる。
ぷらーんと浮いたままの足が、地面に触れる。
身体が安定する。
この腹部を支える温かくて優しい、それでいて強いものがあたしを安定した世界へ下ろしてくれたらしい。
じゃ、じゃあ。
このまま落下してたら、多分あたし・・・。

「・・・てめぇ」
ふいに声が聞こえた。
低く、多分こういうのがドスのきいた声っていうんだろうな。
でもきれいな声、と一瞬悦に入る。
「はい」
てめぇですが、と二つ折りのままの体勢で返す。
「なにかお前、自殺願望者か」
「いえ、普通に普通の生活していたいと願うごく一般的な小市民です」
「じゃあなんで飛び降りてる。しかもこんな人通りのない階段で」
「飛び降りたつもりはなかったんですが」
えーと、と記憶を呼び戻す。
なんでこうなったんだっけ。
「うーんと」
かしげた首。
ぱら、と切るタイミングを失って伸ばしっぱなしの長い髪がカーテンのようになびく。
ウェーブもかかっていない天然のストレートなので、うっかり切り損ねると五年ぐらい平気で美容院に行かない。
その髪を眺めて思い出す。
「髪が」
「あ?」
「そこの踊り場の窓が開いてて」
そこあるでしょう、と上体を起こして後ろを指差す。
「後ろから風が吹いてきて、目の前髪の毛になっちゃって見えなくて。距離測り違えて階段踏み外しました」
「・・・そんなことあるのか」
「見えなくなるのはしょっちゅうですが、こうなったのは初めてです」
あー危なかった、と笑う。
「ありがとうございました。おかげさまで無事です」
「そうか」
すっと力強く腹部を支えていた腕が離れる。
ひんやりと風が通る。
もう夏も目前だというのに、今日は少し気温が低い。
ふっと彼がかがんだかと思うと、なにかを拾ってあたしに差し出した。
「落としてる」
ケータイだった。
よくあるカラーのものだった。
かといってあまりじゃらじゃらとストラップを付けるのは好まないので目印のように一つだけ付けていた。
たった一つ、イニシャルのトップがついたものだけ。
「あ、割れてる・・・」
ケータイは無傷だったが、そのストラップが割れていた。
「・・・イニシャルか」
「名前がアミなもので」
割れたなぁ、と割れたもう半分を足元から拾う。
「仕方ない、また買い換えます」
「大事なものか」
「いえ」
かけらをポケットへ入れてから相手を見た。
「でもきれいな色だったから」
「そうか」
さっきから代わり映えのない言葉。
まるで聞き流すかのような。

「あなたの声も」

「は?」
それまで本気で聞き流していたらしい、彼は唐突な言葉に戸惑ったようだった。
当然といえば当然だが。
「澄んでて、すごくきれいで。透明だし、キラキラしてる」
「・・・」
ものすごく不可解そうな瞳。
「さっきてめぇって言った時の声もすごくきれいだった」
ドスのきいた声でさえも、鈴を転がしたような美しさ。
「いい声。うらやましい限り」
ね、と笑ってみせる。
さっきからしかめっ面のままだった彼は、ふと表情筋を緩めた。
「・・・そうか」
「ええ」
そのときの彼の表情は、とても―――・・・。

予鈴が響く。
あと五分で午後の授業が始まってしまう。
まるでシンデレラの十二時の鐘のようだった。
耳にチャイムがこだます。
彼の声も聞こえてこないか、と瞳を閉じる。
シンデレラが階段に忘れたのはガラスの靴。
なら、あたしは?

「本当にありがとうございました」
ぺこ、と音がしそうなほどかくかくとしたお辞儀。
一秒でも長く、前を向いていたい。
「いや別に。面白い話も聞けたから」
「それはよかったです」
えへ、とさっきまではそれほど目立っていなかったであろう、言葉遣いと相反するような微笑みを浮かべてみる。
成功しているか定かではないが。
彼はそうか、とまた淡々とした代わり映えのかけらもないような言葉をこぼす。
「今度ここ通るときは気をつけろよ」
「はい」
彼はあたしがうっかり踏み外した階段を下りようとして、そしてそのまま止まった。
振り返って、まじまじとあたしを見た。
なにか変かしら、と訊きそうになったが、先に口を開いたのは彼だった。
それも、さも言い忘れていたことを思い出したような口ぶりで。

「短いのも似合うぞ」

殺し文句ですかそれ。
思わず口に出しそうになり、慌てて口をつぐむ。
つぐんでから、つぐまなければもう少し彼の声が聴けたかも、と若干の後悔がよぎった。
本鈴のチャイムが鳴るまで、あたしはそこから動くことが出来なかった。

またここに来よう。
今度逢えたら、偶然ではなく必然になる。
そう、新しいストラップをつけて、髪だって思い切って短くして。
もっともっと彼のきれいな声を聴きたい。
名前だって、教えてもらわないと。

飛び降りるような恋の快感は、まだあたしを捕まえて離さない。






Twitterで仲良くして頂いている蝶々さんから、いただきました。
私が提案したのは『アミ』という名前(もしくは愛称)というところだけです。
ありがとうございました!
そんな蝶々さんのサイト TwiLight ButterFly、気になる方はどうぞ


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