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追憶(前編)

 彼をはじめて見かけたのは、たしかこんな日だった。
校舎のちょうど反対側で、外を見るでもなくたたずんでいた彼をわたしが見つけたのは必然だったのかもしれない。


 わたしは次の日から休み時間のあいだだけ、彼を観察することにした。
浅葱あさぎ、理科室行かないの? 次、移動だよ」
「ごめん、先に行ってて」
友達の言葉を振り切るようにして、私は彼を観察し続けていた。
彼は初めは私の視線に気づいていなかったが、しばらくして気づいたのか、伏し目がちにしていた視線をあげた。
目が合った瞬間、授業開始の鐘が鳴った。
彼から目をそらし、そのまま理科室へと走った。
授業をさぼるつもりなのか、彼はその場所から動こうとはしなかった。
(――――もし、あのとき、鐘が鳴らなかったら……わたしは、きっとあそこから動こうとしなかった……)
急いで理科室へ走りながら、そんなことを思う。理科室に入ると、すぐに先生がやってきて授業が始まった。



 彼を観察し始めると、数日はすぐに過ぎた。
授業にはまったくと言っていいほど出ていないようだった。
しかし、ふと外を見ると体育の授業に参加していたりするので、時々気まぐれに参加するといった風情だ。
わたしは普通の中学生らしいその姿を見て、ほほえんでしまう。
観察しているときの彼の姿は、そのまま消えてしまいそうに儚かったから。
だからわたしは、彼を見つけることができたのかもしれない。



 次の日の数学の時間、いつものように授業を受けていると急に腹痛に襲われた。
隣の席に座っている友人の秋本美雨が、わたしの異変に気づいて声をかけてきた。
「浅葱、大丈夫? 保健室に行こう。立てる?」
「…だいじょうぶ。一人で行けるから」
彼女は担任でもある数学教師に向かって、大声で言った。
「――先生、葉山さんが具合悪いみたいです」
「葉山が? 女子の保健委員、葉山を保健室へ連れて行ってやれ」
「いいです、先生」
わたしがあげた声は、静かな教室に意外に大きく響いた。
その声の大きさにわたしだけでなく、担任も周囲も驚いている。
「ひとりで、行きますから」
「そうか」
担任は誰かにわたしを連れて行かせるのを諦めたようだった。
机の上を片付け、授業の妨げにならないようにそっと席を立つ。後ろの引き戸から保健室に向かってゆっくりと歩く。




 保健室にはたどり着いたものの、先生は不在だった。
来室名簿にクラスと名前を記入する。
『3-C 葉山浅葱』
名前の右横に来室理由を書き添えて、保健室を出る。
腹痛も思っていたほどひどくはなく、次第におさまってきていた。
だからといって、先生が喋るだけの授業が進んでいるだろう“教室”という名の箱に戻ることはしたくなかった。
いつもなら何でもない事なのに、どうしてもそれをしたくなかった。
―――廊下の向こう側から誰かがやってきた。
黒っぽい服を着ているので生徒だということはわかったが、顔は外からの光が窓ガラスに反射してよく見えなかった。



 でも、わたしは心のどこかで知っていた。
それが“彼”であるということを。



 わたしのような急病人や特例がない限り、授業時間であるこの時間に生徒が廊下を歩くことなどない。
彼は廊下の真ん中を少し、右寄りに歩く。
わたしも廊下を右寄りに歩いていた。顔を上げていられずにうつむくと、名札が目に入った。
『3-F 小島律』
初めて、彼の名前と学年を知った。
観察している限りでは、年下か同学年かなんてわからなかったのだ。
すれ違いざまに互いの肩が軽く触れ合った瞬間、授業の終了を告げる鐘が校舎中に響き渡る。



 わたしはその場から動けなくなってしまった。
膝の力が抜けて崩れるように座り込むと、制服から出た脚に床の冷たさを感じた。
心は脚の冷たさとは裏腹に、熱く揺り動かされた。
(彼が 好きだ)
これは自覚だ。
今の彼との間を繋ぐすべてだ。
こんなに心を揺さぶられる感情が存在することを、深く誰かを想うこと、一瞬の逢瀬の切なさを未だ知りえない。
それほどにわたしは子どもだ。
座り込んだわたしの目から、不意に涙がこぼれる。いま判っているのは、この涙を止められないということだけだった。
次の授業が始まる鐘が鳴っていたが、わたしは立ち上がれなかった。
誰も通りかかったりしないことを願いながら、声を押し殺して泣いていた。
まるで、そうすることしか知らない赤ん坊のように。




 体力をひたすら泣くことに費やした後、腕時計を見やると三時間目が終わる十分前だった。
その頃には何とか泣き止んでいて、立ち上がって制服の埃を払う。脚に触れると、すっかり冷えている。
今頃、恥ずかしさで心がいっぱいになる。
誰も通らなくてよかった。
ゆっくり歩いて教室に戻る頃には三時間目は終わっていて、教科の教師もすでに職員室に行っていた。
「浅葱、これ」
友人たちの間では一番仲良くしている萩原ふみが、二・三時間目のノートを持って来てくれた。
わたしは文に笑いかけながら、礼を言い受け取った。
その場で自分のノートへ写し始める。
「浅葱、浅葱、大丈夫だった?」
「うん、もう平気」
 女子の群れと話していた美雨が寄って来て、尋ねる。わたしは彼女の問いに平然と答えた。
「美雨は騒ぎすぎなんだよ」
彼女の隣に立っていた河村杳子ようこが言う。
家が近く、幼なじみ同士であるためお互いの性格をよく把握しているようだ。
わたしはノートを写す手を休めて、彼女たちに尋ねる。
「ねぇ、小島律ってひと知ってる?」
一瞬で周囲の空気が凍った気がした。
文がわたしに尋ね返す。
「ほんとに知らないの? ウチの学年の有名人だよ?」
全然知らなかったから聞いているんだけどな。
文と杳子がかわるがわる彼に関する説明と噂話をしてくれた。
――授業にはほとんど出ていないが、テストだけは受けていて必ず学年トップか上位に入っていること。
そういう理由で授業に出ていなくても先生方も文句は言えずにいるとか。
しかし、気まぐれに授業に出て先生たちを驚かしていること。
天才肌・中学卒業と同時に留学・IQが200以上ある・出席日数がぎりぎりだが、義務教育だから無理にでも卒業させられるらしい。



わたしにとって噂なんかは正直、どうでもよかった。
正確に言えば、噂の下に隠された彼の素顔に興味がある。
それを知らなければ、わたしは彼に対して何も感じることができない。
噂はいつでも歪曲されて伝えられるものだから、よけいにどこまでが真実なのか、はっきり理解したかった。


前編・終
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