FAKE Prologue――1990―― 

 空はまだ薄暗い。
遠く、鴉の鳴き声が聞こえる。
そんな夜明け前の病室で、初美は目を覚ました。
何だか昨夜から自分の身体がおかしいのだ。
数日前から体調がおかしいことにすでに気づいていた。
そのことは医師に相談し、投与される薬の量も変化している。
しかし、それとは別に『何か』が違っていた。
夜が明けるまで、もう一眠りしよう。
そして明日見舞いに来る夫に相談しよう。
彼女は再び、目を閉じた。



 翌日、見舞いにやってきた夫に妊娠していることを告げる。
昨日の朝、主治医に体調を相談したところ、その日のうちに産婦人科に回された。
そこで彼女は妊娠を告げられたのだ。
「そうか」
彼の表情に暗いものが宿ったのを初美は見逃さなかった。
「嬉しくないの?」
初美の心に疑心暗鬼めいたものが浮かぶ。
「いや、もちろん嬉しいさ」
告げる夫の声には、まだ明るさを取り戻すことができなかった。
そして初美は昨日から考えていたことを口にした。
「もし女の子だったら、『早百合』と名づけたいわ」
夫が驚いたのが傍から見てもわかった。
「……どうして、」
夫が尋ねるように、つぶやく。
「だって、いい名前じゃない」
「……あぁ、そうだな。 でもちょっと気が早いんじゃないのか? 
性別がわかったわけじゃないんだろう?」
「気が早くても何でも、この名前がいいのよ」
「顔を見てからでも遅くないよ。 それに、俺にも名前を考える楽しみをくれよ」
初美はそっと笑う。
「そうね。もしかしたら、男の子かもしれないものね」




 初美は会話をしながら気づいていた。
夫は心の底から、喜んでくれていない。
きっと突然で驚いているのだ。
もっとお腹が大きくなってくれば、父親としての実感が湧いてくるに違いない。
彼女は自分を納得させた。



 初美の夫・誠一郎は病院から自宅まで運転して帰ってきた。
今の彼の精神状態は車を運転するのがやっとだった。
自宅の玄関扉を閉めた瞬間、その場に背中から崩れ落ちる。
「……なぜなんだ……」
どうして、妻はあんなことを言ったのか。
『早百合』は、妻の記憶の失われた欠片。
それが妊娠することによって一時的に引き戻された、とでもいうのか。
誠一郎はゆっくりと立ち上がる。
靴を脱ぐのももどかしく、一階の奥の間に向かう。
南向きの窓のある、奥の間。
見晴らしのいい部屋に置かれた祭壇の上に、小さな箱と金糸で彩られた布に包まれたわが子があった。




 どうか、お前の母親を、まだ性別もわからぬ小さな命を守ってやってくれ。
あいつが忘れていても、俺がお前を覚えているから。
彼は祈ることしかできなかった。