FAKE 8 守るための嘘

 電話の向こうが一瞬、静かになる。
早百合も声を失う。
まさか自分がたどり着いた真実に、それ以上に残酷な事実が隠されていたなんて。



 「その言葉を聞いた時、父さんは母さんの記憶が戻ったのかと思った」
「記憶は戻っていなかったの?」
「母さんの記憶は戻っていなかった。医者にも確認した。性別もまだわからない時期だったから『男の子かもしれない』『名前を考える楽しみをくれ』と、父さんはその時は言葉を濁した」
そして季節は移り、月は満ちる。
「学生時代からの友人、会社の人間、親戚、医者………ありとあらゆる人に相談して、何度も法律を細かく調べ直した。それでも結論は出なかった。―――翌年の夏の初め、生まれたのは………女の子だった」
「その子が、私なのね………」
「………そうだ」
早百合が生まれた瞬間は、父には唯一の望みが絶たれた瞬間だったのだろう。
『男の子であれ』という望みが。



 「父さんが女の子でも別の名前にしようと伝えても、母さんは頑なに『早百合』以外の名前を受け付けなかった」
ならば、無理矢理でも別の名前を名付けてくれなかったのか?
「父さんは『同じ戸籍に入る者は同じ名前であってはならない』という文章を見つけて、本当に安堵したんだ………なのに、まさか同時に『出生した子が入るべき戸籍中既に除籍となった者と同名の出生届は受理しても差し支えない』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という一文を見つけるなんて………」
母に本当のことを言えれば、どれほど楽だったのか。
繰り返す波のような希望と絶望が父を襲っていた。
「父さんは精神的に疲れ切っていたんだ………早百合、すまない………」
妻の失われた記憶か、娘が生涯使う名前か。
どちらも選択できない中で、父が選んだのは―――。



 ―――早百合が『早百合』として、今ここに生きている。
早百合の名前そのものが既に、父の答え。
父は早百合の存在を『使って』、母に嘘をつくことを選んだ。
母の心を守る嘘を。



「………お父さん、もうわかりました。ありがとう………言いにくい事を教えてくれて。おやすみなさい」
早百合は応答のない携帯電話に呼びかけると、そのまま電話を切った。



 早百合には父を責めることはできない。
六歳で死んだ姉も『早百合』である。
そして今生きている、十八歳の自分も『早百合』だ。
名前は同じでも、同じ人生ではない。
どちらが偽物でも本物でもない。
父は姉の生まれ変わりを望んだのではないから。



 早百合はすでに十八年を生きている。
その間に章仁という弟が生まれ、佳乃を初めとする友人たちに出会い、恭平という恋人もできた。
これからも生きていく早百合にしか見つけられないもの、得られないものがたくさんある。
そのたびに早百合は迷い、傷つくかもしれない。
それでも、自分の欲しい物や行きたい場所を選び取る。
―――恭平に会いたい。
彼のぬくもりが恋しい。
会って、受け止めてほしい。
甘えるのではなく。
そして、愛していると彼に伝えよう。



 今まで心のどこかにあった違和感は姉のせいだろうか。
そうだとしても、違うとしても、早百合はすべて連れて行く。
姉が生きることのなかった未来へ。