彼の手

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 向かい側に座る、彼の手だけを見ている。
付き合って3年になるが、未だに彼の手の所作に見惚れてしまうのだ。
―――そのせいで、彼の言葉を聞き逃すぐらいには。



 「今、何て言ったの?」
私が聞き返すと彼は困った顔をして、もう一度言った。
「別れてくれ」
「……何で、」
その先の言葉は続かなかった。
「好きな人ができた」
その「好きな人」は私だったはずなのに。
耳が聞くことを拒否しているのか、遠い声に聞こえてくる。
「わかった。もう会わない」
そして私はバッグから携帯電話を取り出して、彼のメールアドレスと電話番号を消去する。
泣いてなどやるもんか。



 すっかり氷が溶けたアイスコーヒーを一口飲んだところで、彼が伝票を掴んで立ち上がる。
慌てて追いかけて店を出る。
「待ってよ」
財布を取り出して、自分の飲食代を払う。
細かい金額はあげるつもりで渡す。
どうせ何十円単位だ、寄付でもしたと思えば安いもんだ。
「あぁ、悪い」
彼は自分の財布をポケットに入れると、私に右手を差し出してきた。
別れ話をした元彼女にまで律儀にそうする彼に、私たちの年月が確かに刻まれていたことを思う。



 私は異性と手をつなぐのに、左手を使う。
右手が使えないわけではないのだが、利き手を預けられない。
それは誰かに自分の主導権を握られるのが嫌だったのかもしれない。
彼はそれがわかってからは必ず私に右手を差し出した。
私も彼の右手を取って、自分の左手を繋いできた。
それが私たちだった。



 「今日で最後だから」
私は彼の左側に回り、サッと左手を繋いだ。
私も彼も何も言わなかった。
うつむいたら泣いてしまいそうな気がして、前だけを見ていた。



 こんな風に最初から素直に右手を預けられていたら、何か違っていただろうか。
今さら後悔しても、日々が戻ることはない。
もし次があるならば、今度は間違えない。
ちゃんと身も心も預けられる人と出逢おう。
そして右手を繋いで歩くんだ。



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