夏の終わり 2



 「どこまで行っても何も変わらねぇ」
ひまわりの迷路を彷徨うのにも飽きたので、悠輔はそこら辺で見つけた適当な大きさの石に座り込んだ。
ジーンズ越しに熱くなった石の温度を感じる。
随分時間が経ち、その上日差しは照りつけているのに、喉の渇きも空腹も覚えないのだ。
風が吹きさわさわとひまわりが揺れる。見渡す限り続く金色。
「夢みたいだな……………」
「勝手に夢にしないで」
突然の声に驚き、悠輔は立ち上がった。
ひまわりの金色の中に翡翠色の浴衣が鮮やかに浮かび上がり、声の持ち主が判る。
「―――――葉津はつ
葉津の、怒ったような視線は先程と変わらない。
「私たちはここにいるの。これは私たちの現実なんだから勝手に夢だなんて思って欲しくない」
悠輔は意味が判らず少し戸惑う。
「私たち、って他にも誰かいるのか?」
「いるわ。どうして独りで生きていけるの?」
何でもないことのように言われた言葉に、何故か、胸の奥が焼けつくような痛みを悠輔は感じた。
「……独りになったことが夢だったら良かった」
(――――そうだ。俺は長い事独りだった)
ひまわりが揺れて、一斉に金色も揺れる。
「周りに誰がいても、あいつ以外だったら独りと一緒だ」
ひとりと、一緒だ………………
「だから、ここにその人を探しに来たのね」
「違う」
はっきりと悠輔は言い放った。
「あいつはもういない」
「バカね。ここには嘘つきしかいないって教えてあげたのもう忘れてる」
「だったらお前の言う事も嘘だ」
やわらかな思い出しか浮かんでこないのに。
それ以外を思い出したら心が壊れてしまうから。



     夏の終わりにひまわりの迷路で何度もキスをしていたのに



    

 たったひとつの名前。
「『早葉子さよこ』」
呟いたのは、葉津だった。
悠輔をひまわりの迷路に迷い込ませた、呪文。
たった十五で消えた少女。
やわらかな思い出が輪郭を持ち始める。
葉津の視線がまた厳しさを帯び始めた。
「あなたが、殺した『早葉子さよこ』」
夢の中の早葉子は笑っている。やわらかな夢の中に閉じ込めた少女。
「早葉子は―――――」
「あなたが、殺した『私』」
金色の花びらが揺れて、少女の涙も散る。
「優しい嘘を終わらせてあげて」
白い手が白い顔を覆う。



あの頃の俺たちは、ただ漠然とした幸せだけを求めてた。



 幼なじみだった二人が、偶然触れた手の熱さに気がついた時、何かがきっと狂っていった。
夏の終わり、学校帰りの道で。
ひまわりの迷路で、キスをした。 
夕暮れは朱色。夕暮れは甘い匂い。
静かな夕暮れに送ってくれたひとは誰だった?
頬がとても熱くて。胸の奥が締めつけて。
ふたりは、暮れゆく空を見てた。
心だけじゃ足りない気がして。




 「目覚めさせないでほしかったのに」
穏やかな声が悠輔と葉津の耳に届いた。だが、その声に恨んでいる様子はない。
ただ、受け止めるだけの、優しくかなしい声。さらりと背に流れた髪が涼しい風になびく。
「………あなただと思った」 
随分大人びたけど、あの頃と変わらないやわらかい笑顔。
「早葉子………?」
震える声で悠輔は問う。目の前の早葉子に似た女性は悠輔よりずっとずっと大人で。
十五で早葉子はってしまった筈だったのに。
大人になれなかった、早葉子。
「あなたは、結局誰も愛せなかったのね。だから、愛したかもしれない私の思い出にしがみついた。でもね、私それでも嬉しかったのよ。確かに、ずるい事かもしれないけど、私も優しい嘘にしがみついていたかったのよ」
「だけど早葉子は―――――」
駄々をこねるようにかぶりをふる悠輔を『早葉子』は抱きしめる。
「此処には嘘つきしかいないって聞かなかった?」
抱きしめる腕がか細くなっていく代わりに、自分の身体が変化していくのを悠輔は感じた。
(子供の泣き声が、聞こえる―――――)
悠輔は早葉子から身体を離した。
「早葉子…………!」
早葉子から『時』が剥がれ落ちていく。少しずつ、あの頃の早葉子になっていく。
その代わりに、悠輔に『時』がまとわりついていく。
「十五年、だった」
そうだ。あれから十五年経ってる。
「俺、もう三十路に入ってたんだよな」
くすりと、悠輔は笑う。
「そうよ」
泣きそうな顔のまま、早葉子も笑う。
「だから、『嘘つき』って言われた訳か」
赤ん坊の泣き声が突然響きわたり、思わず悠輔は驚く。
「えっ?」
早葉子が、赤ん坊を腕に抱いている。赤ん坊をくるんでいるのは、翡翠色の浴衣。
「まさか…………?」 
「葉津よ」
愛しげに早葉子は腕の中の赤ん坊を揺する。
「此処に居るのは、みんな嘘なのにね」
淋しげに、早葉子は言う。
(『私たちはここにいるの』)
葉津の叫びが悠輔の耳に蘇る。
嘘つきしかいないひまわりの迷路。
悠輔は恐る恐る早葉子の方に手を伸ばす。
「悠輔?」
小首を傾げる早葉子はまだあどけなかった。
「抱かせて、くれないか? ……その子を」
早葉子は眩しげに少し目を細めたが、微かに微笑んで葉津を悠輔に渡した。
『嘘』の筈のその子は、暖かかった。
「此処はお前の夢か? それとも俺の夢か?」
口ではそう問いかけながらも、悠輔は腕の中の葉津の暖かさを現実だと思いたかった。悠輔の思いを見透かしたかのように、早葉子は少し困った顔をする。
「あなたは、大人になっても、誰も、愛せなかった」
何年経っても。
悠輔は自嘲の笑みをこぼした。
「やっぱり、あれはきつかったからな」
悠輔に抱かれた葉津が少しぐずり始める。
『愛した』代償は大きすぎたから。





俺たちが、十五の時だった。
幼すぎた、と言えばそれだけで終わってしまうけど。
早葉子が、身籠みごもった。
俺たちではどうする事も出来ない内に親に知られて。
俺たちの与り知らぬ所で、双方の両親の間で話がつけられ早葉子は中絶を迫られた。
俺たちにも行き詰まる事は判っていたけど、一緒に何処かに逃げたかった。だが、その頃には俺たちは隔てられて、逢う事もままならない状況にあり、お互いがどうしてるかも知らなかった。
そんな中、早葉子が死んだ、と俺は聞かされる。
病院に連れていかれる前日に家を抜け出し、そのまま信号無視の車にはねられたのだ。
淡々と早葉子の死を告げられた時こそ、俺は『嘘』だと思いたかった。優しい『嘘』をあれ程望んだ日はない。
早葉子と、その中にいたもうひとつの命。たった十五で消えた、やわらかな笑顔。
あの時、罪悪感よりも置いていかれた孤独感のほうが強かった。狂いたかった。何もかも忘れたかった。
急遽、家は引っ越しを決め、俺は早葉子の葬儀に出る事も許されなかったが、葬儀に出た早葉子の友人が形見分けに貰った物をこっそり届けてくれたのだ。
小さな、銀の十字架のネックレス。
俺は、あの街を離れる日にこっそり家を抜け出し、早葉子の好きだったひまわりの畑に、十字架を埋めた。
線路沿いで、列車が過ぎる度に何故か切なかった。
夏の終わりの、午後。
あれは、かなしい夢だったのかもしれない。




 腕の中の温もりが消えたのを感じて、悠輔は我に返る。抱いていた筈の葉津が消えていた。
顔を上げると、ひまわりの迷路の中に泣いた顔で笑う懐かしい少女がいた。
彼女は、あの時のようにひまわりの迷路に消えてしまう。
「早葉子!」
悠輔は必死に叫んだ。
今度こそ失いたくなくて、ただその名を呼び続ける。
最後に、早葉子は振り返ったようだった。彼女の唇が動くが、紡いだ言葉が判らない。
追いかけたいのに、足が動かない。
無駄な足掻きと知っていても、悠輔は足掻く。
どうしようもなく寂しくてかなしくて、戻る筈のないものたちを叫び続けた。    



        夢のなか 君は笑ってた。

        永遠に終わらない夏の夢に、君を閉じ込めた。

        君の魂は、永い間、僕の夢に繋がれた。



 悠輔は走りだしていた。
ひまわりの迷路のただ一点を目指して。
昨日の事のように今なら思い出せる。
一本の枯れかけたひまわりの根元を手で掘った。しばらく掘って、土塊の中から何かを捜し出す。
朽ちた、十字架。
彼女たちをここに閉じ込めていたもの。
忘れていた、自分の罪。
悠輔はそれをハンカチにくるんでポケットに入れた。
変わらない、ひまわりの迷路を振り返る。
「おやすみ」
悠輔はそっと囁く。




やがて、ひまわりの中に彼の泣き伏す姿が沈んだ。




     



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