春の日 1

ススム | モクジ
 藤谷水樹はその日、いつもより早起きをした。
トレーニングウェアに着替えて階下に降り、顔を洗う。
ロードワークのために家を出て、30分後に戻るのも毎日の日課である。
部屋に戻る頃になっても、他の二つの部屋からはまだ起き出す気配はない。
制服に着替えて階下に行くと、母が食事の支度をしていた。
「おはよう、水樹。仏壇にごはんあげてちょうだいな」
「はぁい」
専用の器に白米をよそう。お盆の上には水が乗っている。その隣に器を置く。
仏壇の前に立ち線香をあげて、遺影を見上げる。
そこには父方の祖父母がいる。
同居する前に亡くなった祖母と、同居から一年もしないうちに亡くなった祖父。
もし祖父母が生きていたなら、今日、中学に入る上の妹に何と声をかけてやったのだろうか。




 「おはよう、お母さん」
水樹は改めて母に朝のあいさつをした。
「あら? さっきお母さん、水樹に「おはよう」って言ったわよね?」
「うん、言ったよ。私が返事しなかった気がしたから」
「そう。制服着てるけど、こんなに早く学校に行くの?」
「委員会の用事があるから」
目の前には白いご飯に味噌汁にはじゃがいも、だし巻き玉子に焼きたての塩鮭、ホウレン草のおひたしが並んでいる。
母の料理はいつも完璧だ。
ごはんがおいしいと、朝から幸せな気分になれる。
制服が汚れないようにかっぽう着をつけて、いただきます、と両手を合わせてから食べ始める。
「春休み中も活動しなければいけない委員会なんて、大変ねぇ」
「まぁね」
子どもには子どもなりの事情がある。
「お夕飯は盛大にやるから、早めに帰ってらっしゃいね」
今日は上の妹、瞳の中学の入学式である。
その準備のために学校へ行くことを、母は知らない。
ごちそうさま、と手を合わせると同時に緑茶が目の前に出される。
これまたタイミングが完璧だ。



 出勤する父が居間から出てきた。
「おはよう」
「おはよう、お父さん。お父さんは瞳の入学式、出るの?」
「いいや。半休が取れなかったし、お母さんにまかせるよ」
「そう」
「水樹、2杯目注いだから飲みなさい」
いらないと言う前に、2杯目が目の前の湯飲みに注がれている。
「1杯茶はするものじゃない」ということを母はいつも言っている。
どうやら『気持ちに余裕を持って行動しなさい』ということらしい。
2杯目もきっちり頂いて、隣に置いたカバンをつかむ。
そこは普段は下の妹の和紗の席だ。
小学校の始業式は明日だ。
今日はまだ休みだから、今の時間には起きてこないだろう。




 家を出ると、真新しい学生服を着た人たちが駅へ向かうのが見えた。
高校も今日あたりが入学式のピークなのだろうか。




 学校へ着くと、すぐに後ろから声をかけられた。
「藤谷先輩、おはようございます」
「おはようございます」
後輩の高畑勇太郎と増田美鈴だ。
「二人とも、おはよう」
「何だか、どきどきしますね」
「どうして?」
「だって、後輩ができるなんて嬉しくて」
「そうだよなぁ。小学校の時は意識しなかったのに、何でだろう?」
水樹は苦笑いを返す。
それだけで、『嬉しい』という言葉を使う後輩たちを幸せ者だと思った。
「そんなことも言ってられないわよ。二人とも今日はしっかりやってもらいますからね」
「はい!」
高畑と増田は元気よく返事をすると、二年の下駄箱のある方へ歩いていった。
水樹はそれを見送って三年の下駄箱へ向かう。

     




                                   
【春の日(2)へ続く】
ススム | モクジ
Copyright (c) 2009 Ai Sunahara All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-