―――卒業の日はあっけなくやってきた。
眠れなかった頭を抱えて、もう二度と着ることのない制服に袖を通す。
入学を決めたのは制服の真っ赤なリボンが気に入ったのだったな、となぜか思い出す。
仕上げに薄く、ピンク色の口紅を塗る。
18歳の誕生日に母から贈られたものだ。
式の間、学校を巣立っていくことを『寂しい』と人並みに感じはしたが、泣くことはなかった。
友だちにはいつだって逢おうと思えば、逢える。
電話だってメールだってある。
高校生活はそれなりに楽しかったし、無事に進路も決まった。
思い残すことはないはずだった。
しかし、あのひとの姿が目に入った瞬間だけは泣きそうになってしまう。
言えばいいのか。
報われないと知っていながら。
負けのわかっている勝負はできない。
式を終え、最後のホームルームを締めくくった後、まだざわめきの残る教室を出る。
友だちの美奈に声をかけられる。
「可南子、もう帰るの?」
「ううん、用事があるから宮坂先生のところに行って来る」
「今日の卒業パーティー、行くでしょ? 駅前に5時だからね」
「わかった」
手を振りながら、美奈に返事をする。
向かう先は国語教官室。
そこに、あのひとがいる。
可南子はノートに名前を書かずに、三年間、国語の授業を受けていた。
普段は何も困らないが、提出があるときには不便だ。
しかし、それは賭けでもあった。
『国語の宮坂先生に自分の名を覚えてもらう』ということ。
一年生の夏前にノートを提出して返されたとき、「クラスと番号だけじゃなく、ちゃんと名前を書きなさい」と注意された。
『佐伯可南子』と書かれた水色の付箋が表紙に貼られていた。名簿で調べたのだろう。
「すみません」
可南子はそう答えて、その場を離れた。
ただ、それだけのはずだった。
なのに、心は揺さぶられた。
この人に『自分の名前を覚えさせたい』と強く思った。
成績上位者かつ理系に進学予定だった可南子は国語の補習に出る必要はなかった。
受験科目に国語が含まれていないからだ。それでも、担任でも部活動の顧問でもない先生と授業以外のつながりを求めて、週二回の補習を欠かすことなく通い続けた。
国語教官室の扉をノックすると、中から「どうぞ」と声がした。
「失礼します」
六畳ほどの部屋に机と教材などがびっしりと詰め込まれている。
背を向けている先生に声をかける。
「宮坂先生」
先生はゆっくりと、振り返った。
「佐伯さん、どうしましたか?」
できるかぎり最上の笑顔を作ってから、言う。
「ノートを取りに来ました」
「ちょっと待ってくださいね」
先生は机の引き出しを開けた。
「これですね」
取り出されたノートは、名前がなかった。
「はい」
「ずっと取りに来なかったので、今日も来ないと思っていましたよ」
「『立つ鳥跡を濁さず』ですよ、先生」
「そうですね。『立つ鳥跡を濁して』はいけません」
「先生」
「何でしょう?」
「最後に、握手してもらえませんか?」
「いいですよ」
互いの右手で握手する。
離そうとして緩めた先生の手を思い切り引っ張る。
勢いで頬にかすめる程度の口づけをする。
「佐伯さん! 何するんですか!」
「何って……したこと、そのままの意味です」
「そのままの意味って……」
先生はティッシュで頬をこすりだした。
「頬、こすらないほうがいいですよ。口紅つけてますから」
「だからって……こんなことを……」
まだ先生は頬をこすっている。
「たぶん普通に告白しても判っていただけないかな、と思って。それに、立つ鳥跡を濁してはいけないんですよね?」
にっこりと笑ってみせたが、先生には悪魔の笑みに見えたかもしれない。
「女の先生からクレンジング借りて落とすか、湿布でもはって隠してください。失礼しました」
国語教官室の扉を閉め、ノブから手を離した瞬間思わず走り出してしまう。
きっと今、顔が真っ赤だろうと思う。
自分でも思い切ったことをしたと感じる。
幼い恋だけれど、きっと未来の私は今の私をあざ笑うことはないだろう。
私は、今日、高校を卒業した。
終