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● 誰のために、何のために 6  ●

 駅伝の日は、九月最後の日曜日だ。
ユニフォームは袖なしで、下は短パンだから走っていないときには少し寒い。
待っている時間は上着を着ていられるけど、走る時はどれだけ寒いだろうか。
会場は海辺の大きな公園の中にあるサイクリングコースを使っている。
時々、強い海風が足元を吹き抜ける。


 「西山中学!」
係員の声に、あたしは顔をあげた。
声がかかったのは、係員に前を走る人の姿が見えた合図だ。
「行ってらっしゃい」
付き添いの世良が優しく声をかけてくれた。
あたしは上着を脱いで預けると、静かにラインに並んだ。
ラインに向かってまっすぐ走ってきたのは、板橋さんだ。
勢いをつけたまま、肩から外した青いたすきをあたしの手に渡す。
お互いに何も言葉をかわす余裕はない。
あたしはたすきを握りしめたまま、自分の担当である三区を駆け始める。


 風は気にならなかった。
コースの間をたくさん木が生えていて、それが風を防いでくれていた。
海辺だけあって、波の音とアスファルトを蹴る自分の足音だけが聞こえる。
苦しい。
集中力が途切れそうになる。
あたしは100Mや200Mは好きでも、長距離走は嫌いなんだ。
前を走るオレンジ色のユニフォームはとても小さく見える。
「藤谷! 頑張れ!」
「瞳!」
名前を呼ばれて、あたしはその方向を見た。
少し先のコースの脇に鈴木と展人が立っている。
二人は駅伝メンバーじゃない。
ずっとここで待っていてくれたんだろうか。
声が聞こえても、走るペースを落とせない。
あたしができたのは、二人の前を全速力で駆け抜けることだけだった。


 4キロの三区も終わりに近づいたころ、目の端っこに緑色のユニフォーム姿が入ってきた。
南町中学だ。
もうラストスパートをかけてきたんだろうか。
この区間で順位を下げるわけにはいかない。
――絶対負けない。負けたくない。
あたしはさっきよりも力強くアスファルトを蹴る。


 三区と四区の中継地点が見える。
おそらく今ごろ、あそこには一年生の川村さんが立っている。
あたしは未だに手の中にあるたすきを見た。
練習の時にもつけ方を習ったのに、結局つけないまま走ってきてしまった。
緑色のユニフォームは振り切ろうとしてもしつこくついてくる。
どれだけ力強く走っても振り切れない。
元から長距離をやっている子なんだろうか?
だから、あたしと違うねばりがあるんだろうか?
「瞳ー! 頑張ってー!!」
「藤谷ー! 頑張れ、あと少しだ!」
コースの外から智穂と佐々田の声が聞こえる。
――二人とも来てくれたんだ。
「藤谷先輩、頑張って!」
今の声は。
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
声のした方を向くこともスピードを落とすこともできない。
でも、小泉さんの声だとはっきりわかった。


 「お願い!」
転がるようにして入った中継地点で、あたしは川村さんに向かって叫んでいた。
川村さんはあたしからたすきを受け取ると、大きくうなずいて走っていった。
ほぼ同時にたすきを渡された、緑色のユニフォームの次のランナーが追いかけていく。
中継地点から少し離れると、あたしは座りこんでしまう。
終わったという安心感がどっとやってきて、うまく息ができない。
ゆっくり立ち上がる。
上着を持った世良とこれから最終の五区を走る酒井さんが走り寄ってくる。
「大丈夫?」
「この辺だったら邪魔にならないだろうから、落ち着くまで座ってれば?」
あたしは首を振った。
「小泉さんが……来てるの。 伝えなきゃいけないことがあるの」
「小泉さんが?」
あたしはうなずく。
息が荒くて、うまく言葉にならない。
「さっき、声がした」
どうしても今、会って伝えなきゃいけない気がした。
この前、山内先生の前で言った『待ってる』を。


 世良と酒井さんの肩越しにサイクリングの自転車を貸し出す事務所の前、小泉さんの姿を見つけた。
あたしと目が合うと、逃げるみたいにどこかに行こうとする。
「小泉さん、待って!」
あたしたちのいるサイクリングコースと事務所の間には金網の柵がある。
柵が低ければ簡単に飛び越すんだけど、あたしの背よりも高い。
「小泉さん!」
もう一度叫ぶと、小泉さんは立ち止まった。
でも、こっちは向かなかった。
「待ってるから」
ゆっくりとあたしは言葉を口にした。
今の小泉さんには重いかもしれない気持ちを。
「『自分のために走りたい』って思えるまで待ってるから」
誰かのためじゃない。
何か目標がなくても、ただ、走りたい。
そう思える日が来るまで。
もしどうしてもそう思えなくて辞めたくなっても、小泉さんの本心ならあたしたちは受け入れなくちゃいけない。


 小泉さんは向こうを見たまま、大きくうなずく。
あたしはそれを見て、自分の言いたいことが伝わったのだと信じた。
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