走り始めたら、数メートルも行かないうちに『パーン』『パーン』と続けて二回、ピストルが鳴った。
フライングの合図だ。
――まさか。
「３コース、フライング」
審判役の先生が、ハンドスピーカーで告げる。
――やってしまった。
『フライングを二回やると失格』
山内先生の言葉が頭に浮かんだ。
ハンドスピーカーの放送を受けて、放送委員がアナウンスする。
『2年女子100M、ただいまの競技は３コースのフライングです』
それを聞いて、ざわめいた一群が見える。
おそらくうちのクラスだろう。
選手たちがスタートに戻り、コースに入りなおす。
スタート体勢を取る前に胸に手をあててもう一度、深呼吸する。
目の端っこに世良と佐々田、鈴木の三人が映る。
応援は自分のクラスの席でしか許されていないのに、フライングで心配になったのかな。
三人の方を向いて、右手の親指を立ててみせる。
『心配するな』
そう伝えたかった。
三人がこちらを見ている。
ちゃんと伝わっただろうか？
一度目と同じように、クラウチングスタートの体勢を取り左足を前に置く。
「位置について、用意」
二度目の合図が鳴る。
ダッ、と一歩目の足音が聞こえそうなくらい、踏み込んだ。
前だけ見てる。
前や周囲に誰がいるとかもよくわからない。
一人、背中が見えるということは少なくとも前に一人はいる。
わかるのは、それくらい。
顔に当たる風が痛い。
前にいた誰かは左からスパートをかけたら、簡単に抜けた。
ぶっちぎってダッシュしてゴールに飛び込む。
勢いで少し走り抜けて、そのまま倒れこむ。
酸欠で頭の中は真っ白だ。
この瞬間を味わいたいから100を選んだ、と言ったら、言いすぎになるかもしれないけれど。
――こんなに、走れるなんて。
まだ陸上部に入部してひと月になるかならないかなのに。
自分の手足があんなに動くなんて、動いたなんて、信じられなかった。
走り終えたのに、まだ信じられない。
どれだけ月日は短くとも、練習は確かに身になっている。
ごろり、と仰向けになると、世良がスタート地点に置いてきたジャージを持ってきてくれていた。
「ありがと」
起き上がって上だけ羽織ろうとしたら、背中の砂を払ってくれる。
何か払い方に勢いがあって、痛いんですけど気のせいか。
「あーあ、こんなに砂だらけにして。 決勝も走るのに」
「え」
あたし何位だったんだろう？
「1位だった。 あんたが倒れてる間に放送入ってたよ。 聞こえなかった？」
「聞こえなかった」
「本当に？ 気絶でもしてた？」
「そうかも」
席に戻ると、みんな拍手で迎えてくれた。
佐々田は入れ替わりに「藤谷、がんばったな。 俺はこれから幅跳び決勝だから」と行ってしまった。
そして鈴木はこんなことを言った。
「そのハチマキ、していってよかっただろ？」
「は？」
まったく意味がわかりませんが？
返答が意外だったようで、さっきよりも一段小さい声で告げる。
「先に決勝に決まったから、縁起かつぎというか、そんな感じで……」
あぁ、そういうことか。
だからあの時、なかば無理やり持って行かせたんだ。
「ありがとう、助かったよ」
鈴木に返そうとしたけど、止められる。
「それはそのまま使ってくれ。 で、藤谷が使ってない方を俺に貸してくれ」
「わかった」
決勝を勝ち抜けるように、気合を入れてから貸してあげた。
「まったく、フライングなんかしやがって。 こっちは寿命縮んだぞ」
「本当よねぇ」
「力入っちゃったんだよ。 すいませんね。 で、佐々田の応援行かないの？」
「おう、行こうぜ」
行く途中で結果が貼りだされたホワイトボードを見る。
決勝進出者の名前には、マーカーで赤丸がついている。
もちろん、あたしの名前にもほかの陸上部員にも。
――2年B組・河内世良、2年女子200M予選二組１位。
――2年B組・鈴木秀之、2年男子100M予選三組２位。
――2年A組・酒井有希、2年女子400M予選二組１位。
――1年B組・川村千恵、1年女子800M予選一組３位。
――2年C組・牧村翼、2年男子高跳び決勝進出。
――1年A組・小泉さつき、1年女子100MH予選三組２位・決勝１位。
みんなの名前が並ぶ中、一番下にあたしの名前があった。
――2年B組・藤谷瞳、2年女子100M予選一組１位。
これで、あたしはようやく自分の順位を正式に知ることができた。
第七話(10)・終
■フライングに関して■
2003年にルールが改正され、一回目のフライングをした者でなくても、二回目以降にフライングをした者が失格になりますが、作中は1991年のため、『連続二回フライングした者が失格』としております。ご了承ください。