追憶(後編)

 そうして何事もなく数日が過ぎ、わたしは彼と接する機会を得た。
その日の五時間目が体育の授業だったので、わたしたちは制服を着替えて急いで体育館に向かう。
前の時間の体育はE組とF組だったのだろう、体育館からはじき出される生徒の群れの中に彼の姿を見つけた。
彼と目が合う。
そらせずにいると彼が何かを話したように見えたが、その声は周囲のたわいもない会話にかき消された。
わたしはまた、あのときのようにその場から動けなくなり立ち尽くす。
「浅葱、どうしたの? また具合悪い?」
前を歩いていた文が、止まっているわたしに気づいて振り返る。
杳子ようこがそばによって来て、心配そうに顔を覗き込む。美雨は文の隣でおろおろしている。
わたしは文の問いかけに答えずに、ただ頷く。
そしてそのまま回れ右をして体育館から走り出る。




現在いま”どうしても彼に逢わなければいけない。
そんな気がしていた。




 教室に戻ると、急いで制服に着替え直しF組へと足を向けた。
「小島君、いるかな?」
廊下側の一番後ろに座っている男子に小声で尋ねる。
相手はあたりを一通り見回してから、答えた。
「さっきまでいたけど……どこ行ったかまでは知らないな」
「そう。ありがとう」
小さく言ってその場から離れる。
窓の外を見ると、雨が降りそうな天気だ。
私の足は自然に図書室へと向かっていた。




図書室の扉を荒々しく開けると、カウンターにいた司書の先生に睨まれた。
だが、そんなことに構わず先生に尋ねる。
「三年F組の小島くん、来てませんか?」
「小島君? 今日はまだ見てないわ」
「そうですか。ありがとうございます」
先生に一礼して図書室を出る。扉は滑りが良すぎるらしく、またしても荒々しく閉まる。
扉の向こうで先生はきっとこちらを睨みつけていただろうと想像できた。




 図書室を出て、あてもなく歩いていると人の声が耳に入る。
歌っているのか、何か話しているのか判らないくらいに微かなその声は屋上につながる階段の方から聞こえている。
足は自然にその階段へ向かう。
――彼は、屋上に出る一番手前の踊り場に座り、細い声で歌っていた。
わたしは静かに階段を登っていって、彼に尋ねた。
「隣で聴いていてもいい?」
彼は歌を止め、驚いた様子でわたしを見た。
「……どうぞ」
わたしは彼と適当に距離を置いて、スカートのしわを気にしながら床に座った。
聴こえるのは雨音と彼の歌声。
それだけで充分だ。



 いつの間にか心地よくて眠ってしまったらしい。
目を覚ますと、わたしは彼に寄りかかって眠っていた。
びっくりして起き上がろうとすると二つ分けに結んでいる髪の片方を掴まれていることに気づいた。
寝てたときの体勢を少し座り直す。隣を見ると、彼はまだ眠っている。そっと長めの前髪に触れる。
触れられたことに気づいたらしく、彼が目を開けた。
わたしが髪に触れていたことは何も言わなかったが、自分がわたしの髪を掴んだまま眠っていたことがわかると、ぱっと手を離し謝った。
「ごめん」
「べつに……」
「『あさぎ』って読むんだろ?」
「えっ?」
「名前」
彼が自分の胸元を指差す。わたしは頷いた。
「きれいな名前だな」
そう言われて、心がざわめく。
このひとに、触れたい。そう思った。
彼がわたしに顔を近づける。視界に映ったのは彼の澄んだ瞳だった。――彼がわたしにキスしてきた。
唇が離れると彼は確信の口調でわたしの名を呼んだ。
「浅葱」と。
わたしもまた、彼の名前をはじめて呼んだ。
「律」と。




 あれから五年が過ぎた。
わたしたちは同じ高校に進み、今は医学部と法学部の違いはあるものの同じ大学に在籍している。
大学でも学部の違いを飛び越えて、彼に関する噂のいくつかはわたしの耳にも届いている。
でも、噂なんて最初から信じていない。
だってわたしは知っているから。
『人嫌い』と周囲から評されている彼がわたしに触れるときの優しい仕草や、名前を呼ぶときの声の柔らかさを。


 彼と出逢った十五歳のときに誓ったのだ。 
誰が何と言おうと彼を信じる。
そして自分自身を信じる、と。


 わたしは、もう何も恐れない。
隣に彼がいてくれる限り、何だって飛びこえてみせる。




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